模刻作品

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上林 清泉 (かんばやし せいせん)


享和元年(1801)~明治3年(1870)
10代目上林牛加、景命(本名)、清泉・楽只軒(雅号)


享和元年(1801)、美濃国岩村(現岐阜県恵那市岩村町)に生まれる。
文政10年(1827)、縁あって国学者橋本経亮の紹介で跡継ぎのなかった上林牛加家(宇治茶師)の
猶子となってからは茶業家として、また宇治郷取締方として、宇治の産業や政治に深くかかわっていくことになる。

 

雅号を清泉あるいは楽只軒と称し、茶業のかたわら数多くの絵画や彫刻品を残している。清泉の こうした才能は偶然の所産ではあるまい。金森宗和につながる生家の血筋によるもの、あるいは 円山応挙の門人であった父台州の影響によるものが考えられる。

 

安政5年(1858)に家業を長男の松壽へ譲ってからは、白川村(現宇治市白川)に隠居して絵画や人形作りに専念したという。
明治3年(1870)没。享年70歳 

 

        山城郷土資料館「宇治茶の郷のたからもの」図録 本文より引用

        

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茶合

     茶器のひとつで、茶の量をはかるものです。茶の木で作っています。


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上林 楽之軒(かんばやし らくのけん)


天保7年(1836)~明治42年(1909)
景毅・繁(本名)、楽之軒・丘泉(雅号)

 

清泉の次男景毅(繁)は、楽之軒または丘泉と号し、幼い頃から清泉に絵と彫刻の手ほどきを受け、 清泉が隠居した際にはともに白川村に住み、そこで茶の木人形の制作を始めた。楽之軒の人形の 特徴は、清泉とちがって丸顔であること、蓑傘を着けた雨姿の茶摘女を彫り始めたこと、茶摘女 のほかに利休像、大黒像、達磨大師像、通園像など多彩なバリエーションの人形を制作している ところであり、その後の茶の木人形の様式がここで完成されたといえる。

 

        山城郷土資料館「宇治茶の郷のたからもの」図録 本文より引用

 

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岡村 楽山(おかむら らくざん)


明治10年(1877)~昭和16年(1941)
岡村 繁三(本名)、旭軒・楽山(雅号)

 

宇治村白川(現宇治市白川)に生まれる。茶の木人形の制作開始年代は明らかではないが、大正
 年間(1912-1926)から昭和10年(1935)ごろまで通園茶屋で販売していたようである。
大正8年(1919)には、宇治へ行啓された貞明皇后に御買上げられ、大正13年(1924)には、宇治町  から貞明皇后に楽山の人形が献上された。また、大正15年には、閑院宮載仁親王と姫宮殿下が  通園茶屋で御買上げになるなど楽山の人形は評判が高かった。

 

楽山が著した「宇治人形略記」によると、楽之軒亡き後、茶の木人形を摸刻するものはいたが、 技が遠く及ばずに廃業していったなか、自身のみが技を継ぐことができたという。

 

茶の木以外にも椿材を使用しており、比較的大きな人形も制作している。

        山城郷土資料館「宇治茶の郷のたからもの」図録 本文より引用

 

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桂 楽峯(かつら らくほう)


明治27年(1894)~昭和40年(1965)
桂甚一(本名)、楽峯(雅号)

 

宇治町白川(現宇治市白川)で生まれ育ち、宇治発電所に勤める。昭和2年(1927)の土産製作
講習会に参加して以来、茶摘人形や茶の木人形の制作に取り組むようになった。

同年、内外農民手工芸展覧会に出品し、昭和4年(1929)には副業共進会で2等を受賞、昭和28
年(1953)には観光みやげ品展示会で知事賞を受賞するなど、茶摘人形ならびに茶の木人形を
世に広めることに貢献した。それだけではなく、昭和3年(1928)には、京都御所の第一朝集所
に自らの作品を陳列し、昭和天皇の天覧を賜った。昭和8年(1933)にも京都御所御三ノ間にお
いて天覧を賜った。その際、人形50個が御買上られた。また、昭和13年(1938)には照宮内親王 行啓に際して台覧された。楽峯作の茶の木人形は顔からアゴにかけてのラインに特徴がある。
戦時中は人形の制作を中断していたが、再び昭和28年から2年間だけ制作に取り組み、平等院
内最勝院で販売している。

 

                                   山城郷土資料館「宇治茶の郷のたからもの」図録 本文より引用

 

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